昭和43年1月30日 朝の御理解
                          中村良一


 昨日、須田先生が、お帰りになりますので、ここから、私、以下、十余名のものが、駅に見送りに参りました。皆さんもご承知のように、ここで、二日間に渡っての、一生懸命の御用をして下さいました。とても七十三とは思われない様な、若々しさと、どっから、あのエネルギーが生まれてくるだろうかといった様な、あの素晴らしい信心、御用振りというものを、ほとほと、感心する他ございません。ここで、二日間の御用を頂き終わられて、甘木の教会に、お出でに出られました。それから、平田さんのところの、かみげんという、原鶴の旅館に、一晩、泊まられましてね。それでもう、昨日も仰った。もう向こうで、疲れはもう、すっきり取れてしまったと。私共も、みんな、外へ出てから、今から、駅の方へ行こうと思いよりましたら、見知らん車が入って参りますもん。誰じゃろうかと、言っておりましたら、何とその、平田さんところの車で、須田先生が、ここへまた、ちょっとお礼に寄ったというて、お礼に出て見えられたのと、ちょうど一緒になりました。私共も、只今から、お送りしようと思っておるんですからと言うて、まぁ、こちらの、車に乗り換えて頂いてから、あちらへ参りました。まぁ、大変喜んで頂きましたから。ちょうど、二十分前に、駅に着きましたから、あちらで、コーヒーども頂いて、お茶でも頂いてから、下へおりましたら、もう直ぐ、待つ時間もないほどに、車が、あれはツバメでしたかね。汽車でしたか。それに乗られて、それでまぁ、別れを惜しみながら、お帰りになった訳でございますが。もう本当に、もう感激一杯で、涙ぐんで喜んでおられました。私共も、本当に、まぁどうぞ、先生、本当に、お道のために、いよいよ、元気で、御用して下さいませという様な心持で、お送りさせて頂いたんですけれども。たった、それだけの中にですね、須田先生の、救われておられる、助かって行かれる。もう、いよいよ、徳の車に乗って、一生を、あのまま、喜びで終わってお出でられるだろうという、縮図を見たような感じが致しましたですね。一生懸命の、一生懸命の御用。しかも、喜びいっぱいで。しかも、七十三とは思われないほどの、エネルキッシュな御用振りというものがですね。ただただ、驚くばかりでございます。しかも、そこにはです。ちゃっと、ほんなら、神様が、御用に使いっ放しという事じゃないですね。そこには、ちゃんとこう、その、「かねげん」という、温泉旅館に。しかも、平田さんがおられるなら、また、一晩中、お話をされるのでございましょうけれども、幸いにして、平田さんが、御用でおられなかった。そこでその、あちらの奥さんを相手に、もう八時ごろは休まれるように、ゆっくりさせて頂いたと、こういう訳ですね。もう、一生懸命、御用に使うて頂く。そこにはまた、神様が、こう、何ともかんとも言えん様な思いですかね、感じで、そこに、須田先生を迎えておられる姿がね、感じられますでしょう。そして、私共が、もう、素晴らしい、そのタイミングの元にですね。送ろうと思う者、送られる者が、一つに、ここで一緒になって。しかもその、汽車に乗られる。送り送られる、その雰囲気というものがね。もう本当に、あの、おかげを頂いて、助かっておる人の姿であり、縮図でもあると、私は思わせて貰いましたですね。 せっかく、信心させて貰うならね。あのくらいなお徳は、受けたいもんだと、こう思います。ここに、私はその、真の信心の姿というものを見る様な気が致します。
 今朝、私はあの、御神前に出ましたら、はじめは、浄瑠璃の中に、あの、壺坂霊験記というのがございますね。お里、沢一のお芝居なんですね。これほど願うのに、ごりしょうが無いという、その、嘆きのところがございますところを頂いたら、後はあの、浪花節のですね、綾太郎語るところの、その浪花節なんです。そのセリフのところを、ずーっと、頂くんですよね。それこそ、三年越しの、一生懸命の信心。それは、夫の眼病を治さんばっかりに、一生懸命に、その、壺坂の観音様に、願をかけてお参りをする訳なんです。しかも、三年越しの、三年越しの、信心にも関わらず、ごりしょうが無いというのは、それこそ、観音様も聞こえませんという様な気持でおるところへ、沢一の、不思議に思う訳です。家内が、毎晩毎晩、居ないものですからね。いわゆる、その、色々と思う。そして、こういう事であったと、その実情を話しますから、本当に、罰あたりの自分であり、本当に、助かり難い自分であると。お前が、それほど一心に参っておる、お観音様に、自分も連れて参ってくれというところから始まる訳ですね。それこそ、あの、浅葱に銀の一つ紋というね、ところから始まります。そして、大神谷まで来た時に、あの、急に沢一が、みぞおちに手を当てて、持っていた杖を放してから、苦しみ出します。それは仮病なんです。日ごろの持病の癪がつめていた。お前、済まんけれど、これから、家に行ってから、仏壇の引き出しに入れてある、自分の合薬を取ってきてくれんかと。ほんなら、今から取ってくるから、ここに、動かんで待っといて下さいよと、言い残して、それこそ、気もそぞろに、家に取って返して、薬を持って参ります。それこそ、こけつまろびつ、そこまで来てみますと、夫の姿が見えません。びっくり致しましてから、そちの帰りを待ちかねて、お礼拝りに行かしゃんしたかと。怪我でもされたら一大事と言うので、あの、お礼拝所に来て参りますけれども、さらにその、夫の姿が見えない。びっくり仰天です。その時でしたね、あの、お勇みで、かちっとありましたです。私は、ちょうど、そこんところを頂いておる時でした。その、大神谷まで来た時にですね。夫の姿の見えんのに、その、お礼拝所に行かしゃんしたかと。怪我でもされて、一大事というところに、もうそこに、ぱっと不安が生まれておるですね。そして、そこで、夫の姿が、お礼拝所にも見えませんから、取って返して、また大神谷に帰って参りますと。来た時に履いておった草履、そして、ついて来ておった杖が、岩に立てかけて置いてあるから、いよいよ、びっくりしました。それこそ、声を限りに、「沢一さんよ」という叫びを致しますけれども。もう、谷川の音と、松風の音が、帰ってくるだけであった。ここにその、いよいよ、絶望なんです。そして、これから、その自分の目が開かないのを苦にして、その、身を投げて死んだ沢一の後を追うて、死んだ先でも、やはり目の見えぬ、不自由な沢一さんの手を引くのは、自分より他におらんという、その、妻の、いわゆる、貞淑な、その心がですね。自分も、沢一の後を追うて、大神谷に身を投げて、まぁ死ぬわけでございます。
私は、こういう下りのところを、ずーっと頂きながらですね。信心をさせて頂いておりましてもです。いわゆる、これほど願うのに、ごりしょうが無い。これほど願うのに、おかげが無いと。いや、おかげを受けたり、受けなかったりという様な一生涯がですね、続いてもです。それは、なるほど、谷に、二人がはまった後には、いわゆる、日頃、信心する観音様が現れなさってから。前世からの因縁によって、いったんは、召しになったんだけれども、その里の真心によって、開眼させるものなりという、そのお観音様のお声と共に、目が開くというお芝居なんです。ですから、言うならばもう、この世では、仕方がないが、まぁ、こけつまろびつである。場合には、かすかな望みを持って、神様が、何時かはおかげ下さるに違いはない。何時かはおかげ下さるに違いはないと。それがです、例えば、また、大神谷まで引き返した時には、もうすでに、絶望である。私どもの一生が、そういう様な、まぁ一生であるというのが、ごりしょう目当ての信心じゃなかろうかというふうに思うのです。それは、信心の無いより、いわば、あの世で助かるという事もございましょう。一心の信心が、それは、ごりしょう目当て、ご利益目当てではありましてもです。この世では、例えば、こけつまろびつの姿であり、万が一にも、ひょっとすれば、という様な、一つの願いというか、望みを持って、お互い、神様へすがって行く信心をしておるのでございますけれども。最後には、はぁ、こういう信心ではいけなかったという事になるのですよ、やはり。それでもやはり、前世というか、まだその、この世である時に、神様を拝み、仏様を拝み、信心させて頂いておればです。それが、あの世での助かりに、役に立たない事はないのですけれども。それではいけないでしょうが。
最近、私が良く申しますように。須田先生の、いうなら、助かられておられる姿というものがです。御用に打ち込んでおられる。その御用というのも、楽しゅう、元気な心で、生き生きとして、しかも、人間、生身を持ってるのですから。さぁ、二日間の御用を頂かれた、その後には、神様が、温泉旅館で、ゆっくり休ませておられる。そして、あの急行の汽車で帰られる、(ごえつ)の方へ帰って行かれる姿が、もうそのまま、いうならば、おかげに繋がり、あの世にも繋がっていくような、その縮図を見たような感じが致しますと、私も、申しましたがです。私は、そういう信心をです、どうでも一つ頂かなければいかないという事。ね。
昨日は、敬親会でございました。その敬親会に、秋永のお婆ちゃん、こちらへ見えられるのに、一緒に、あちらのお爺ちゃんも一緒でした。先日から、米寿の祝いがございましたね。神様へのお礼のお祭りを致しますから、私が参りました。それでもう、八十八年間の中で、一番の幸せの日といった様な雰囲気の中に、お祝がございました。もう頭から、下まで、一番下着まで、赤づくめの着物を着られましてね。本当にもう、満悦の呈でございます。そういう様な事がございましたから、お礼参拝したいと言うので、昨日は、お婆ちゃんに連れられて、それこそ、壺坂霊験記じゃないけれども、お礼に見えられたんです。それでその、最後に、娘が縁づいとるところがございますから、自分は、そちらに行き、お爺ちゃんは、こちらへもう、泊めて頂きたい。もう、あそこへ行くと、もうとても重か布団ば着するけんで、あそこに行こうごつなかち言いなさるそうですもん。ほんなら、うち泊まって、ほんなら、泊まって頂くなら、お婆ちゃんも一緒に泊まって頂こうと言うので、私は、昨日、家内に申しましてから。あの、今日は、うちのお爺ちゃんと、秋永のお爺ちゃんと、客殿に休んで貰い。須田先生が見えた時に、二組、もう最高の布団をむつ屋に注文しましてから、作らせて貰いました。ですから、それを敷いてから、いやぁ、あなたも、そげん思や、私もいま、そげん思いよるとこじゃったというてから、家内が。まぁ期せずして、私の思いと、家内の思いが一つになった訳です。それで、昨日は、豊美がかかりきりで、お風呂へ入られてから、すぐ、あちらに休んで頂きました。それで、私、昨日は、風邪具合が悪くて、休んでおりましたから。もう、十一時頃だったでしょうか。繁雄さん、最後の御用をして頂きよりましたから、途中で起きてから、今日は、客殿に、二人休んであるけん、どげな風ですね、ちょっと見てこようかと、二人で私は、見に参りました。したら、お爺ちゃん達が二人で、話よりなさるとじゃもん。じっちゃま、これが、やっぱ、この世の極楽ち言うとでっしょうねち。はっははは、本当に、私も、それを聞きながら、胸が熱うなるような思いでした。ね。
私は思うんです。お道の信心させて頂いてですね。もう本当に、この世で極楽というね、おかげを頂かせて貰えれるおかげでなからにゃいかんて。壺坂霊験記じゃいかん。それには、須田先生じゃないけれどもです。それこそ、七十三といや、もう、普通でいや、御隠居さんが、とても、若い者も勝たんような、あぁいう、元気いっぱいの御用をです。しかもこの、有難い信心を、一人でも多くの人に分かって貰わなければおられない。もう昨日なんかは、あの、ホームでもですね。ちょうどあの、上の学生かなんか達が、一緒に行っとりましたが、文雄さんをつかまえて、また、一生懸命、何か話しておられるんですよね。君、しっかりやれよという様なお話でしたんです。もう一人にでもです。もう一時でも、お道の信心を、真の信心を伝えて、本当に助かって貰いたい。本当に、お道のゴヒレイのためにも、しっかり信心してくれと言う、その教団愛と言うかね。お道の、その事で、一杯であられます。あの、例えば、須田先生の一つの信心と言うか、願いに対しましてもです。私共が、あの須田先生を迎えての、二日間の信心研修をですね、無駄にしてはならない。本当に、私共は、焦点を変えて、ごりしょう主義の信心からです。本当に、信心は御用なり。信は力なり。何か一筆と言うてお願いしましたら、沢山、沢山と言うが、大きく書かれました。ね。信心は御用なり、信は力なり。こればっかり書かれるのです。ですから、その、ただ、聞いただけでは分かりませんけれども、その信心とは御用なりと言う事のですね、内容を良く皆さんが、今度、聞かれた訳でございますがです。本当に、その御用が、信心であるという事。しかも、それが当然のこととしてです。おかげを頂かせて貰う。そこには、もう願わんでも頼まんでも、神様は、金銭の上にも健康の上にも、または、身体の保養の上にも、ちゃっと神様が、お働き下さっておるという事が分かるでしょうが。ね。ですから、せっかく、金光大神は、そういう道を、私共に、明示しておられる訳なんです。はっきりと、教えておられる訳なんです。この方、金光大神が言う事を、守らせて頂いたら、必ず、家繁盛にもなる、子孫繁盛にもなる。人間も出来、身代も出来、達者のおかげも受けられて、神徳を受けて、しかも、それが、子々孫々にまで、その信心、その徳というものが残るのだ。それこそ、祝いめでたい若松様よという様な、おかげになって行くのが、金光大神の道じゃという風に教えておられます。ですから、私共は、そこんところを、一つ頂かせて貰わにゃいかん。ほんに、三年も信心するのに、まぁだ目が開かん。本当に、ごいしょうの無いという事を、神様を恨んだり、仏様を恨んだりするような信心が続けられたんではつまらない。けれども、それでもです、それでもやっぱ、神様へ向かい、仏様へ心が向かっておるからです。この世では助からなかったけれども、あの世では、いうなら、開眼的なおかげになって行くでしょうけれどもです。信心のないよりもましでしょうけれどもです。ですから、ここに、信心の無い者の姿という様なものは、もう、お話にならない事になってくるのです。お互いが、初めの間は、やはり、ごりしょう主義から信心に入ります。そして、お話を頂いて行くうちに、こけつまろべつの中に、はえ、おかげを感得致します。なるほど、お繰り合わせを感じます。霊験を体験させて貰う事が出来ますけれども、それでは、一つも、本当の幸せには繋がっていない。とにかく、これがこの世の極楽じゃろうかという事になってこない。それ以上の姿を見て見ると、本当に、日々が、極楽であろうという様な感じの中に、その御用の中にも、極楽を感じておられる。けれども、そこは、肉体を持っておる。だから、そこには、ちょうど、神様がまた、こう抱かかえる様に、その保養を正しておられる。そういう信心を本気で一つ、私共は、目指させて頂いて、おかげを頂きたい。金光大神が仰った事に違わぬ、やはり、おかげを、この世に、私共が、現わして行くという事が、私共の幸せであるという事をです、体験させて貰いたいですね。どうぞ。